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「ほう、さうか。毎年あるのかね。そいぢや、これから度々見られるわけだな」
ところが、何の気なしにいつものきよろんとした目つきでその方を眺めていた徳次の顔には、その時不意打を喰つたやうな表情が浮かんだ。彼は緊張して眺め、さつと顔を紅らめ、力りきんだやうになり、それから急に下こゞみになつて水洗ひの仕事にかゝつたが、明かに上の空だつた。彼は始終落ちつきなく対岸の路を眺めやつた。そしてやはり、紅らんだり力んだりした。
と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。
今頃になつて、男はさう訊き、盛子がそれに答へる前に、ひとりでうなづいていた。
好い座敷には床の間、ちがい棚は設けてあるが、チャブ台もなければ、机もない。茶箪笥や茶道具なども備えつけていないのが多い。近来はどこの温泉旅館にも机、硯すずり、書翰箋しょかんせん、封筒、電報用紙のたぐいは備えつけてあるが、そんなものは一切ない。
「いつから――?」
座敷へ案内されて、まず自分の居どころが決まると、携帯の荷物をかたづけて、型のごとくに入浴する。そこで一息ついた後、宿の女中にむかって両隣の客はどんな人々であるかを訊きく。病人であるか、女づれであるか、子供がいるかを詮議した上で、両隣へ一応の挨拶にゆく。
と、きよろりとした目つきに返つた徳次は、立ちはだかつたやうな恰好になりながら、房一の傍に停つて訊いた。
「わたしはね、こいつは割れさうだなと思つたもんでね」と、笏で自分のはいている木沓を指して、
「どうしても学問をやるというて聞きませんだつたが。――それで神戸高商を出ましてな住友へ入つて結構やつとりましたが、三年前にぽつくり行つてしまひましたよ。病気ですか?結核性脳膜炎とか云ひましてな、十日ぐらいで、あつさりしたもんでした」
温泉は街道から幾折れかの石段で溪ぎわまで下りて行かなければならなかった。街道もそこまでは乗合自動車がやって来た。溪もそこまでは――というとすこし比較が可笑おかしくなるが――鮎が上って来た。そしてその乗合自動車のやって来る起点は、ちょうどまたこの溪の下流のK川が半町ほどの幅になって流れているこの半島の入口の温泉地なのだった。
「おい、早く早く」
小谷は髯のことなんかはよく覚えていなかつたので、曖昧に、気のない返事をした。道平は、さつきは盛子に紅くなるほど笑はれて多少気を悪くしたことではあるが、こんな風に自分が元通りに恢復し、房一の家の縁側に腰を下し、やつて来た人から何やかと話しかけられることに一種のまごつきと期待を現しかけた。だが、小谷には何の反応もなく、その目は又紙衣裳の方へ帰つた。
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